なぜ「学歴いじり」は中高生に刺さるのか
――wakatte.TVが映す、勉強を努力と呼べない社会
成績や進学先は将来を左右する。ところが、勉強に本気になると「ガリ勉」「学歴厨」と笑われることもある。この矛盾は、なぜ若者を学歴コンテンツへ引きつけるのか。ブルデュー、ホネット、サンデルから考える。
「学生をからかう番組」への嫌悪
2026年8月3日、九州大学大学院法学研究院の岡﨑晴輝教授は、Xでwakatte.TVについて、大学の入学難易度を基準に学生をからかう形式に強い嫌悪感を覚えると投稿した。
出演者が学歴を誇張して振る舞うのは本人の自由だとしても、多くの受験生や大学生を巻き込むことは、大学人として看過できないという批判である。岡﨑晴輝氏の投稿
これに関連して、別の投稿は、wakatte.TVが中高生に支持される背景について、次のような仮説を示した。
学歴が重視される割に、「勉強」が努力として認められにくい社会だからではないか。
二つの投稿は、異なる問題を指摘している。
一つ目が問うのは、学生を大学名によって笑いの対象にすることの倫理である。
二つ目が問うのは、そのような番組を若者が求める社会の側である。
wakatte.TVは公式に、自らを日本の学歴社会をブラックに皮肉る番組と説明している。wakatte.TV公式サイト
しかし、制作者の意図が風刺であることと、視聴者が学歴序列を現実のものとして学習することは両立する。
問題は、「風刺だから許されるか」「不快だから見るべきではないか」だけではない。
なぜ受験生は、自分自身も傷つけられる可能性のある学歴コンテンツを見続けるのだろうか。
学歴は重要なのに、学歴を気にすると笑われる
日本社会では、学歴によって人生のすべてが決まるわけではない。
それでも、学歴が就職や賃金と無関係だともいえない。
厚生労働省の2025年調査では、一般労働者の平均月額賃金は高校卒が29万7200円、大学卒が39万6300円だった。新規学卒者についても、高校卒が20万7300円、大学卒が26万2300円となっている。厚生労働省「令和7年賃金構造基本統計調査」
この数字だけで、大学進学が賃金差の原因だと断定することはできない。職種、年齢、家庭環境など、さまざまな条件が影響するからである。
それでも中高生にとって、進学先が将来の選択肢に関わるという感覚は、単なる思い込みではない。
社会は受験生に、「進路について真剣に考えなさい」と要求する。
一方で、勉強に多くの時間を使う生徒を「青春を捨てている」「頭はいいが面白くない」とからかうこともある。スポーツの練習は努力として語られやすいのに、机に向かう時間は外から見えにくい。
ここに奇妙なねじれが生まれる。
社会は学歴という結果を重視するのに、そこへ至る勉強を、必ずしも尊敬すべき努力として扱わない。
そのとき学歴コンテンツは、受験生に一つの保証を与える。
君が気にしている大学の序列は、やはり現実に存在する。
今の勉強は、決して無意味ではない。
中高生が求めているのは、必ずしも他人を見下す許可だけではないのかもしれない。
自分が費やしている時間に意味があると、誰かに認めてもらいたいのである。
ホネット――若者が求めているのは「承認」である
ドイツの哲学者アクセル・ホネットは、人が自分自身を肯定するためには、他者からの「承認」が必要だと考えた。
人間には、権利を持つ対等な人格として尊重されるだけでなく、自分の能力や活動が社会にとって価値あるものとして評価される必要がある。Stanford Encyclopedia of Philosophy「Recognition」
この考えを受験に当てはめると、wakatte.TVの魅力の一部が見えてくる。
受験勉強の努力は、途中ではほとんど見えない。
模試の判定が少し上がったことも、眠気をこらえて英単語を覚えた時間も、周囲には伝わりにくい。しかし、合格した大学名なら一言で伝わる。
大学名は、見えなかった努力を社会に認識させる「証明書」になる。
学歴コンテンツは、その証明書の価値を大声で読み上げてくれる。
難関大学への合格を大げさに称賛することで、受験生の努力を承認するのである。この承認が、勉強を続ける動機になることはあり得る。
だが、そこには重大な問題がある。
称賛が大学の序列だけに基づくなら、誰かを高く評価するために、別の誰かを低く扱う必要が生じるからである。
それは努力の承認ではなく、勝者の承認である。
不合格になった人、途中で進路を変えた人、家庭の事情で十分に勉強できなかった人の努力は、結果とともに消されてしまう。
「努力を認めてほしい」という正当な欲求が、「自分より下の大学を笑いたい」という欲求へ変換される。
学歴いじりの危険は、ここにある。
ブルデュー――大学名は「文化資本」になる
フランスの社会学者・思想家ピエール・ブルデューは、学歴や資格を「制度化された文化資本」として捉えた。
大学の学位は、本人の知識や能力に対して、社会的に通用する一定の価値を与える。複雑で比較しにくい一人ひとりの能力が、資格によって交換・比較できるものになる。Pierre Bourdieu, “The Forms of Capital”
wakatte.TVの世界では、この交換が極端に分かりやすく演出される。
大学名を聞いた瞬間、尊敬するのか、驚くのか、からかうのかが決まる。
一人の人間が何を学び、何を考え、どのような人生を送っているかを知る前に、大学名によって社会的な価値が提示される。
だから受験生は、この番組を単なる娯楽としてだけでなく、「社会における大学名の相場表」として見ることができる。
これは、若者が学歴主義に洗脳されているという単純な話ではない。
大学名が就職や評価に影響する社会で、そのルールを知ろうとすることは、ある意味では合理的である。
しかしブルデューは、試験の結果を純粋な本人の努力だけで説明することにも警告する。
家庭の所得、保護者の学歴、利用できる塾や教材、勉強できる場所、周囲から得られる進学情報など、受験以前の条件は同じではない。
国立教育政策研究所の2025年度調査でも、家庭の社会経済的背景が低いグループほど、各教科の成績が低い傾向が確認されている。もちろん背景だけで結果が決まるわけではないが、競争の出発点が完全に平等ではないことは無視できない。国立教育政策研究所
それにもかかわらず、合格をすべて本人の努力とし、不合格をすべて本人の怠慢とすれば、社会的な格差は個人の責任へ置き換えられる。
wakatte.TVが学歴社会をつくったわけではない。
むしろ、すでに存在する学歴の「交換レート」を、最も刺激的で分かりやすい形にして見せている。
だからこそ、番組だけを批判しても、その人気を生む社会構造は残る。
サンデル――勝者の誇りは、敗者の屈辱を必要とする
アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルは、能力や努力によって地位を決める「メリトクラシー」の暗い面を論じている。
能力のある人を、その能力が必要な仕事に就けること自体は合理的である。
問題は、競争の勝者が「成功はすべて自分の力によるものだ」と考え、敗者についても「努力しなかったから、その地位にいるのだ」と判断するようになることである。
サンデルによれば、メリトクラシーは勝者に傲慢を生み、敗者に屈辱を与える。Michael Sandel, “The Dark Side of Meritocracy”
学歴いじりは、この構造を笑いとして完成させる。
高学歴者は、努力によって勝利した人物として称賛される。
低いと評価された大学の学生は、競争に負けた人物として笑われる。
笑う側は、自分がまだ受験生であっても、一時的に「勝者」の立場に参加できる。難関大学を目指しているというだけで、自分も上位集団に属しているように感じられるからである。
この笑いは、受験生を勉強へ向かわせることもあるだろう。
「将来笑われたくない」という恐怖は、強い動機になる。
しかし、人を動かすことと、その方法が正しいことは同じではない。
屈辱を避けるために勉強する社会では、合格しても不安は終わらない。次は大学内の成績、就職先、年収、役職による比較が始まるからである。
序列の中で承認を得ようとする限り、自分より下に置かれる誰かが必要になる。
風刺は、誰を笑っているのか
wakatte.TVは、学歴第一主義を掲げる出演者をあえて過剰な人物として演じ、日本の学歴社会を皮肉っている。
そのため、出演者の発言をそのまま番組の主張とみなすのは正確ではない。
また、動画には大学の特徴や学生生活を伝え、受験生に有益な情報を提供している面もある。
それでも、「キャラクターだから」という説明だけで、番組の影響がなくなるわけではない。
風刺が何を批判しているかは、制作者の説明だけでなく、視聴者が最終的に誰を笑うかによっても決まる。
学歴で人を判断する出演者の愚かさが笑われているなら、学歴社会への風刺になる。
しかし、入学難易度の低い大学に通う学生自身が笑われ、大学の序列だけが記憶に残るなら、風刺は批判しているはずの価値観を再生産する。
繰り返し演じられる序列は、たとえ冗談であっても、視聴者にとって社会の常識になり得る。
風刺と加担の境界は、「これは冗談です」という宣言だけでは決まらない。
必要なのは、勉強を認めながら人間を順位化しないこと
岡﨑教授の批判に対して、「嫌なら見なければよい」と答えることは簡単である。
一方、番組を閉じれば学歴主義がなくなると考えるのも簡単すぎる。
wakatte.TVの人気が示しているのは、学歴への関心を表では否定しながら、進学や就職では学歴を利用し続ける社会の矛盾である。
必要なのは、学歴について語ることを禁止することではない。
勉強を努力として認めながら、その結果を人間全体の価値に変換しないことである。
難関大学への合格は、確かに大きな達成である。
しかし、それは合格者が他の人間より優れた存在になったことを意味しない。
同様に、不合格や別の進路は、努力の欠如や人格の劣等性を証明しない。
受験生に必要なのは、「上位大学に入れば人から尊敬される」という約束だけではない。
結果にかかわらず、学んだことや費やした時間が尊重されるという確信である。
学歴コンテンツの問題は、学歴を語ることではない。
大学名を聞いた瞬間、その人が持つ残りすべての価値が見えなくなることである。
今回の問い
学歴による屈辱が若者を勉強へ向かわせるなら、それを「教育」と呼んでよいのでしょうか。
私たちが受験生に与えたいのは、上位に行けば笑う側に回れるという約束でしょうか。
それとも、どのような結果になっても、学ぶ努力そのものが尊重される社会でしょうか。
参考資料
- 岡﨑晴輝氏のX投稿
- wakatte.TVの支持をめぐるX投稿
- wakatte.TV公式サイト
- 厚生労働省「令和7年賃金構造基本統計調査」
- Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Recognition”
- Pierre Bourdieu, “The Forms of Capital”
- 国立教育政策研究所「令和7年度全国学力・学習状況調査」
- Michael Sandel, “The Dark Side of Meritocracy”
事実関係は2026年8月6日時点で確認した。引用した思想家はwakatte.TVを論じておらず、その理論を本稿の問いへ応用している。