← 最新の記事へ戻る
QUESTION 13医療・知識・哲学

京大病院の医療事故はなぜ止まらなかったのか

――「腫瘍ではない」を無力化した経験の哲学

京大病院の脳腫瘍手術では、術中の病理検査が二度にわたり「腫瘍ではない」と示した後も摘出が続いた。警告は届いていたのに、なぜ手術を止める力を持たなかったのか。ポパーの反証可能性と『失敗の科学』から、専門家の経験、患者の同意、警告に停止権を与える制度を考える。

2026年8月7日、京都大学医学部附属病院は、脳腫瘍の摘出手術で誤って腫瘍のない部位を摘出する医療事故が起きたと発表した。

この事故で最も重く受け止めるべきなのは、手術中に異常を知らせる情報がなかったことではない。

「腫瘍ではない」という検査結果が二度出ていたのに、その情報が手術を止める力を持たなかったことである。

警告は届いていた。

しかし、警告として機能しなかった。

この違いを考えなければ、事故の原因を「ベテラン医師の慢心」や「思い込み」という個人の性格へ閉じ込め、同じ構造を別の手術室に残すことになる。

今回の事故が問いかけているのは、医師がなぜ間違えたのかだけではない。

人間の判断が間違うことを前提に、どの時点で、誰が、何を根拠に、その判断を止められるのか。

これは医療技術の問題であると同時に、知識、権威、責任をめぐる哲学の問題である。

※本稿は2026年8月9日までに公表された情報に基づく。京大病院は外部有識者を含む事故調査委員会を設置しており、事故原因はまだ確定していない。以下は執刀医の内心や未公表の手術室内の状況を断定するものではなく、公表された経過から事故を止める仕組みを考察するものである。

京大病院の脳腫瘍手術で何が起きたのか

京大病院の発表と各社報道によると、患者は50代の女性で、手術前はめまいやふらつきがあったものの、通常の生活を送っていた。

手術の目的は、小脳と脳幹の間にある「小脳橋角部」にできた約3センチの良性腫瘍を摘出することだった。髄膜腫が疑われていたという。

執刀したのは、医師として20年以上の経験があり、同様の手術を約100件経験していた40代の医師だった。

ところが手術中、腫瘍と思われた組織を調べた病理検査では、腫瘍が明らかではないという趣旨の結果が出た。執刀医は、腫瘍の端の組織を採取したため腫瘍が含まれなかった可能性があると考え、摘出を続けた。

二度目の検査でも腫瘍ではないとの結果が出たが、手術は継続された。

約10時間の手術後、患者の意識と呼吸が回復しなかったためMRI検査を行うと、本来摘出するはずだった腫瘍は手つかずのまま残り、右の小脳扁桃や、呼吸・運動に関わる脳幹が大きく損傷していたことが判明した。

患者は人工呼吸器による管理が続き、手足も動かない重篤な状態で、回復の見込みは不明と報じられている。京都大学医学部附属病院の発表、関西テレビ・FNNの詳報、テレビ朝日の会見報道

この経過だけを見ると、「なぜ二度も検査結果を無視したのか」と言いたくなる。

しかし、「無視」という言葉だけでは、判断の危うさを十分に説明できない。

おそらく重要なのは、結果を見なかったことではなく、結果を見たうえで、もとの判断と矛盾しないように意味を変えたことである。

「腫瘍ではない」という結果が、「採取した場所が腫瘍の端だったから検出されなかったのだ」という説明に置き換えられた。

反証が、仮説を壊す情報ではなく、仮説を守るための材料へ変わったのである。

ポパー――反証しても止まらない仮説は、検証されていない

哲学者カール・ポパーは、科学の強さを「絶対に正しいこと」ではなく、間違っている可能性に自らをさらすことに見いだした。

科学的な仮説には、「もしこの結果が出たら、自分の考えを変更する」という反証の条件が必要である。どのような結果が出ても後から説明を加えて仮説を守れるなら、その仮説は検査されたように見えて、実際には何からも試されていない。Internet Encyclopedia of Philosophy「Karl Popper: Philosophy of Science」

手術中の判断も、行為を伴う仮説だと考えられる。

「目の前の組織は腫瘍である」

「この方向へ摘出を進めてよい」

執刀医は、この仮説に基づいて、取り返すことのできない行為を進める。

もちろん、術中病理検査にも限界があり、一度の陰性結果だけで必ず腫瘍を否定できるとは限らない。採取部位によって腫瘍が含まれない可能性もあるだろう。

だから問題は、「陰性なら必ず中止すべきだった」と外部から単純に決めつけることではない。

本当の問題は、何が起きたらいったん止まり、位置と仮説を再検討するのかが、行為の前に決められていたかである。

一度目の結果は偶然かもしれない。

では、二度目ならどうするのか。

肉眼所見と病理結果が食い違ったとき、誰が再評価するのか。

同じ判断者が同じ仮説をもう一度評価するのか、それとも独立した別の判断を入れるのか。

続行するには、どの矛盾をどの証拠によって解消する必要があるのか。

これらが定められていなければ、検査は情報を出しても、行為を変えない。

止める条件のない検査は、安全装置ではなく、手術に添えられた計器になってしまう。

「100件の経験」は、なぜ安全の保証にならなかったのか

今回の執刀医には、同様の手術を約100件経験した実績があった。

この数字は、経験の浅さが事故を起こしたという説明を退ける。しかし同時に、経験が多ければ自動的に安全になるという常識にも疑問を突きつける。

マシュー・サイドは『失敗の科学』で、失敗から学ぶ組織と学べない組織の違いを論じている。同書が繰り返すのは、失敗の情報を調査して学習へつなげる組織と、都合の悪い情報を無視したり解釈し直したりして、もとの信念を守る「クローズド・ループ現象」に陥る組織の対比である。ディスカヴァー・トゥエンティワン『失敗の科学』

経験は本来、判断を修正する材料の蓄積である。

しかし、成功が続くと、経験は別の働きも始める。

「これまで見分けられてきた」

「以前も病理結果が陰性だったが、実際には腫瘍だった」

「自分はこの術式を知っている」

こうした記憶は、目の前の異常を検討する材料になる一方で、異常を例外として片づける材料にもなる。

経験が増えるほど、パターン認識は速くなる。しかし、自分の判断と専門家としての自己像も強く結びつく。

そのとき反対証拠は、患者を守るための新情報であると同時に、「自分は場所を誤認しているかもしれない」という自己否定を迫る情報になる。

ここに認知的不協和が生じる。

人は自分の信念と事実が衝突したとき、必ずしも信念を変えない。事実の意味を変えることで、衝突そのものを消そうとする。

だから、経験の価値は件数だけでは測れない。

百件の手術が、百回の学習だったのか。

それとも、「これまで正しかった」という一つの確信を百回補強したのか。

両者は同じ数字になる。

同書はさらに、「完璧な集中」そのものが事故を招く逆説を扱っている。

集中力は、視野に入るすべてを平等に見る能力ではない。重要だと判断した対象へ注意を絞り、それ以外を背景へ退ける能力である。最初に対象を正しく定められれば大きな力になるが、対象を誤認した場合には、高い集中力と技術が誤った行為を精密に進めてしまう。

今回の手術で実際にそのような認知のトンネルが生じたかは、映像や関係者への聞き取りを含む調査を待たなければならない。ただし、「経験があるのになぜ」ではなく、経験と集中が強かったからこそ、どのような反証手段が必要だったのかという問いは残る。

本当の熟練とは、間違わないことではない。自分の経験を反証する情報が現れたとき、経験より先に患者を守れることである。

「慢心」で終わらせると、次の事故を準備する

京大病院の会見では、診療科長が肉眼所見による思い込みを大きな問題として挙げ、記者から経験による慢心かと問われて同意する場面が報じられた。

慢心という説明には、直感的な分かりやすさがある。

有能な医師が自信を持ちすぎた。

警告を軽視した。

だから、その医師を厳しく処分し、他の医師に注意を促せばよい。

しかし、この物語はあまりに完結しすぎている。

『失敗の科学』が警告する「犯人探し」の問題は、責任を問うこと自体が悪いという意味ではない。故意、重大な規則違反、職業上の注意義務、組織の設計責任は、事実に基づいて検討されなければならない。

問題は、個人を非難した瞬間に、説明が終わった気になることである。

「慢心した医師」という原因に集約すれば、病院は「他の医師は慢心しないように」と呼びかけられる。だが、人間の自信や思い込みを注意だけで消すことはできない。

次に必要なのは、より慎重な人を探すことではない。

慎重さを失った人でも止められる仕組みをつくることである。

厚生労働省も、医療事故調査制度は個人の責任追及ではなく再発防止を目的とし、個人だけでなく事故を生んだ構造に着目するよう示している。厚生労働省「医療事故調査制度に関するQ&A(Q24)」

これは個人の責任を消すことではない。

個人の責任と組織の責任を競わせず、両方を調べるということである。

患者の同意は、医師の確信への白紙委任ではない

ここには、インフォームド・コンセントをめぐるもう一つの問題がある。

患者が同意したのは、腫瘍を摘出するための手術である。

もちろん手術には、正常組織を損傷する合併症の危険が含まれる。しかし、患者の同意は、医師が腫瘍だと信じたものなら何を摘出してもよいという白紙委任ではない。

手術の倫理的な正当性は、対象が腫瘍であり、摘出による利益が危険を上回るという知識に支えられている。

その対象が本当に腫瘍なのかという疑いが強くなれば、同じ行為でも正当化の土台が弱くなる。

つまり、病理検査の陰性結果は診断上の情報であるだけでなく、患者から預かった手術の権限を、このまま行使し続けてよいかを問い直す情報でもある。

麻酔下の患者は、「一度止まって確認してください」と言えない。

自分の身体から何が失われつつあるのかを見ることもできない。

だからこそ、患者が発言できない時間には、制度が患者の代わりに疑わなければならない。

不可逆的な行為で、対象の同一性に重大な疑いが生じたなら、立証すべきなのは「なぜ止めるのか」ではなく、「なぜ続けてよいのか」である。

疑いが生じても続行を既定路線にするのではなく、疑いが解消されるまで中断を既定路線にする。

これが、患者の同意を手術中にも生かし続けるということではないか。

必要なのは「情報」ではなく、情報に与える停止権である

今回の事故では、病理検査という安全に関わる情報が存在した。

それでも事故は止まらなかった。

この事実は、「検査を増やす」「注意を徹底する」だけでは不十分であることを示している。

必要なのは、反対証拠が出たときに作動する「認識のブレーキ」である。

たとえば、事故調査では少なくとも次の点が明らかにされる必要がある。

  • 摘出部位を腫瘍と判断した解剖学的根拠は何だったのか
  • 一度目と二度目の病理結果は、いつ、誰に、どのような表現で伝わったのか
  • 肉眼所見と病理結果の不一致を、手術チームはどのように共有したのか
  • 画像、ナビゲーション、解剖学的位置を再確認したのか
  • 続行以外の選択肢は検討されたのか
  • 誰に手術を中断する権限があり、実際に異議を述べられる環境だったのか
  • 二度目の陰性結果が出た場合の、事前に定められた手順はあったのか

これらは、「誰が悪かったか」を薄める質問ではない。

事故がどの防壁を通り抜けたのかを特定する質問である。

米国医療研究・品質庁の医療チーム訓練では、安全上の重大な懸念を二度伝えても解消されない場合、立場にかかわらず工程を直ちに止める「Two-Challenge Rule」が示されている。重要なのは、勇気ある誰かが叫ぶことだけではない。異議が一定条件を満たしたとき、個人の権威より上位の停止権へ変わることである。AHRQ「Two-Challenge Rule」

京大病院は、手術映像を保全し、事故後は脳腫瘍摘出手術で複数人による確認を徹底していると報じられている。テレビ朝日の続報

映像は、医療版のブラックボックスになり得る。

ただし、ブラックボックスの価値は、誰かを最も強く非難できる場面を探すことにはない。

判断がどこで固定され、どの情報が届き、なぜ届いても行為が変わらなかったのかを、時間の流れに沿って再構成することにある。

そして再発防止策は、「複数人で確認する」という抽象語で終わってはならない。

誰が確認するのか。

何を確認するのか。

どの結果なら中断するのか。

再開を認めるのは誰か。

判断の不一致をどこへエスカレーションするのか。

そこまで決めて初めて、確認は儀式ではなくブレーキになる。

結論――最も優れた医師を、時には止められる病院へ

今回の医療事故を「経験豊富な医師でさえ間違える」とまとめるだけでは足りない。

人間は間違える。

経験豊富な人も間違える。

そして経験は、間違いを減らすだけでなく、ときに間違いへ説得力を与える。

だから安全な組織は、最も経験のある人へすべてを委ねる組織ではない。

最も経験のある人の判断さえ、証拠によって中断できる組織である。

病理検査が二度「腫瘍ではない」と示したのに手術が続いたのだとすれば、足りなかったのは情報ではなかった。

情報に、人間の確信を止める権限が与えられていなかった。

検査結果を増やすだけでは、患者は守れない。

反対証拠を歓迎する文化だけでも、まだ足りない。

必要なのは、反対証拠が現れた瞬間に、いったん手を止め、権威を分散し、仮説を組み直す具体的な制度である。

失敗から学ぶとは、事故後に反省することだけではない。

失敗が完成する前に、「自分たちは間違っているかもしれない」と言える場所を、手術の途中につくることである。

警告が聞こえる病院ではなく、警告によって止まれる病院へ。

京大病院の事故調査で問われるべきなのは、まさにその一点である。


今回の問い

二度の「腫瘍ではない」という結果を覆して手術を続けるには、誰が、どこまでの根拠を示すべきだったのでしょうか。

経験豊富な専門家の判断と、専門家の判断を止める制度が衝突したとき、私たちはどちらを信頼すべきでしょうか。

医療事故で個人の責任を問うことと、同じ事故を生む構造を調べることを、どうすれば両立できるでしょうか。

患者が声を上げられない手術中、その人の「止めてほしいかもしれない」という可能性を、誰が代わりに守るべきでしょうか。


参考資料

SHARE

この記事を共有

問いを、次の対話へ。

XLINEFacebookRedditBluesky

DISCUSSION

この問いについて話す

日本語・英語のどちらでも投稿できます。コメントは自動翻訳され、両方の記事で共有されます。

0/2000 文字

コメントを読み込んでいます…

DISCOVER MORE

次に読みたい記事

この問いを、別のニュースや哲学から考える。

NOW IN QUESTIONで注目されている記事。

  1. 01QUESTION 25東大国語研究会とは?評判・炎上・「怪しい」「詐欺」の検索、予備試験テキスト・グラマーシーツから考える――受験生の不安を売る教育は正しいか
  2. 02QUESTION 18誰も主催していない祭りを、誰が止めるのか――「野獣の日」とプロトコル型群衆
  3. 03QUESTION 43神戸射殺事件の赤田正行・亀谷直人とは?三井環「消えた2億円」と真珠宮ビル跡地