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QUESTION 09社会・倫理・哲学

なぜ植松聖を「ヒーロー」と呼ぶ人がいるのか

――被害者の怒りと優生思想の境界

津久井やまゆり園で19人を殺害した植松聖死刑囚を、事件後も「ヒーロー」と呼ぶ声がある。そこには匿名の悪ふざけだけでなく、救われなかった犯罪被害者の怒りや、福祉制度への不満も入り込む。しかし、理解できる苦痛はどこで、無関係な人々の排除を正当化する思想へ変わるのか。

2016年7月26日、神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が殺害され、利用者や職員27人が負傷した。

事件から10年が過ぎた現在も、障害者の生命を「社会の負担」や「生産性」によって評価する言葉は消えていない。

事件直後の報道によれば、神奈川県警には植松聖への面会や差し入れを希望する問い合わせがあり、SNSでも植松を「ヒーロー」と呼ぶ投稿が見られた。

なぜ、抵抗することが困難な人々を就寝中に襲った大量殺人犯が、一部の人から英雄視されたのだろうか。

単なる匿名インターネットの悪ふざけだけでは説明できない。

そこには、障害者をめぐる社会制度への不満、犯罪被害者の救われない怒り、そして複雑な問題を「誰かを消せば解決する」という物語に変えてしまう誘惑が重なっている。

植松聖は「責任能力のない患者」ではない

事件直後の記事では、植松を「容疑者」と表記し、精神科への措置入院歴や大麻使用によって責任能力が否定される可能性にも言及していた。

しかし、その後の裁判では結論が出ている。

横浜地方裁判所は2020年3月、植松には事件当時、完全な刑事責任能力があったと認定し、死刑を言い渡した。植松が控訴を取り下げたため、死刑判決は確定している。

精神科への入院歴や薬物使用があれば、直ちに刑事責任がなくなるわけではない。

刑事責任能力は病名だけで決まるのではなく、犯行時に行為の善悪を理解し、その理解に従って行動する能力があったかを、具体的な証拠から司法が判断する。

植松の犯行を「精神を病んだ介護職員による突発的な暴走」として片づけることはできない。

彼は障害者の生命を意思疎通能力や生産性によって分類し、殺害を社会の利益として正当化した。その思想に基づき、準備して犯行を実行したのである。

犯罪被害者の怒りを切り捨ててはならない

元記事は、知的障害のある男性に顔を切られたという匿名女性の証言を紹介している。

記事によれば、加害男性には刑事責任能力が認められず、女性は十分に救済されなかったと感じた。その結果、知的障害者への恐怖と憎しみを抱き、SNSに「植松はヒーロー」と投稿したという。

匿名証言であるため、事件の詳細を独立して確認することはできない。しかし、そこで示されている問題まで無視してよいわけではない。

突然の犯罪によって顔に傷を負い、仕事や人間関係を失い、さらに司法から「加害者を処罰できない」と告げられたなら、被害者が強い怒りを抱くのは当然である。

刑法39条は、心神喪失者の行為を罰せず、心神耗弱者の刑を減軽すると定めている。

しかし、刑事責任を問えないことは、被害が小さかったことを意味しない。

加害者を処罰できるかという問題と、被害者が受けた苦痛を社会がどこまで支えるかという問題は別である。刑罰を科せないなら、なおさら治療、再発防止、損害回復、心理的支援について丁寧な説明が必要になる。

また、心神喪失等の状態で重大な他害行為をした者については、裁判所が入院・通院医療の必要性を判断する医療観察制度も存在する。「責任能力がないと判断されたから、何の対応もなく解放される」と単純化するのは正確ではない。

被害者の怒りを「差別だから」とだけ批判すれば、被害者は再び見捨てられたと感じるだろう。必要なのは、怒りを否定することではなく、その怒りが無関係な人々への集団的憎悪に変わらないよう、社会が受け止めることである。

一人への怒りが、なぜ集団への憎悪に変わるのか

犯罪を行ったのが知的障害のある一人の人物だったとしても、その責任はその人物の行為について判断されるべきである。

津久井やまゆり園で殺害された19人は、その犯罪とは何の関係もない。

それにもかかわらず、「知的障害者に傷つけられた」という経験から、「知的障害者を殺した植松は英雄だ」という結論へ移るとき、責任の対象が個人から集団へと置き換えられている。

これは、ある男性から暴力を受けた人が、無関係な男性の殺害を肯定することや、ある外国人の犯罪を理由に、同じ国籍の人々への暴力を支持することと同じ構造である。

恐怖が一般化することは心理的には理解できる。しかし、その一般化を社会的な正義として認めることはできない。

感情には、必ずしも本人が選べない部分がある。一方、「ある集団に属する人間は殺されてもよい」という主張を公に支持することは、他者の生命を脅かす政治的な行為になる。

理解できる感情と、正当化できる主張は同じではない。

ジラール――障害者をスケープゴートにする社会

思想家ルネ・ジラールは、社会の内部に不安や対立が蓄積すると、それを一人または一つの集団に集中させ、その排除によって秩序を回復しようとする「スケープゴート」の仕組みを論じた。

スケープゴートが成立するためには、対象が無実であるとは認識されてはならない。社会を苦しめている原因であり、排除されて当然の存在だと思われる必要がある。

障害者福祉をめぐっては、家族の介護負担、施設職員の低賃金、人手不足、公費の負担、犯罪や行動障害への不十分な対応など、現実の問題が存在する。

しかし、それらは本来、制度、予算、人員配置、医療、被害者支援について個別に解決すべき問題である。

植松を英雄視する物語は、この複雑さを消してしまう。

障害者がいなければ、すべての問題は解決する。

そう考えた瞬間、制度の失敗は障害者自身の存在に責任転嫁される。行政や雇用主、政治、地域社会が負うべき責任は見えなくなり、最も抵抗しにくい人々が「社会を苦しめる原因」にされる。

植松は問題を解決したのではない。

問題そのものと見なされた人々を殺害したのである。

この二つを混同するとき、殺人は「社会のために誰もできなかったことを実行した」という偽りの英雄物語へ変わる。

ヌスバウム――「税金を使う人間には価値がない」という偽の計算

植松を支持する投稿では、障害者を「税金を消費するだけの存在」と表現する言葉が見られた。

しかし、人間の生存権を納税額や生産性に結びつければ、その基準は障害者だけにはとどまらない。

乳幼児、高齢者、病気になった人、失業した人、災害に遭った人、教育を受けている人も、ある時点では他者の支援を受ける。事故や加齢によって、現在「支える側」にいる人が、明日には「支えられる側」になる可能性もある。

生産性によって生命の価値が決まる社会では、誰の生命も無条件には守られない。

マーサ・ヌスバウムのケイパビリティ・アプローチは、正義を「社会にどれほど利益を返したか」ではなく、一人ひとりが人間らしく生きるための実質的な可能性を持てているかという観点から考える。

この理論は、重度の障害がある人も正義の対象に含め、政府には尊厳ある生活に必要な条件を保障する責任があるとする。

支援に費用がかかることは事実である。しかし、その事実から導かれるのは「支援される人を消すべきだ」という結論ではない。

誰が介護の負担を担い、どのように公平に分配し、介護者と被介護者の双方が尊厳を保てる制度をつくるかという政治的課題である。

アーレント――人間を「余計な存在」に変えるとき

ハンナ・アーレントは、全体主義の根本的な悪を、人間を「余計な存在」に変えることとして捉えた。

人間がそれぞれ異なる人生を持つ個人としてではなく、交換可能で、排除しても社会に何も失われない集団として扱われるとき、暴力を妨げる境界が崩れていく。

津久井やまゆり園事件について、社会は加害者の名前、思想、経歴、写真を繰り返し記憶してきた。

その一方で、犠牲者はしばしば「重度障害者19人」という一つの集団として語られる。

もちろん匿名には、遺族の意思や差別から家族を守るという重要な理由がある。それでも、加害者だけが思想と物語を持ち、犠牲者が数字と属性だけになる構図には注意が必要である。

植松の主張を批判するために繰り返し紹介することが、結果的に彼の言葉を広め、犠牲者を再び背景へ追いやる危険もある。

19人には、それぞれに好きな食べ物、表情、生活の習慣、家族や支援者との関係があった。

言葉で意思を表現できるかどうかと、経験や感情が存在しないことは同じではない。

彼らを「社会に何も返さない存在」と呼ぶことは、彼らの人生を知らない側が、その人生を一方的に空白と決めつけることである。

障害者による犯罪被害と、障害者差別は同時に語れる

この問題では、二つの現実のどちらかを消す必要はない。

知的障害や精神障害のある人から暴力を受けた被害者が存在し、十分な救済を受けられず苦しむことがある。

同時に、障害者もまた、虐待や性暴力、搾取などの被害を受けやすい立場にある。内閣府に提出された資料でも、知的障害が重いほど犯罪被害の危険が高まる可能性や、被害が警察に認識されにくい問題が指摘されている。

一方の被害を語ることは、もう一方の被害を否定することではない。

必要なのは、障害のある加害者についても個別の危険性を適切に評価し、治療や監督、再発防止を実施すること。そして被害者には、加害者の責任能力の有無にかかわらず、十分な補償と長期的な支援を提供することである。

同時に、無関係な障害者を潜在的犯罪者として扱わず、集団全体への恐怖や処罰に問題をすり替えないことである。

「被害者に寄り添うこと」と「障害者の生命を守ること」は対立しない。

両方を守れない制度の不備こそ、批判されるべきなのである。

英雄が攻撃したのは、権力者ではなかった

一般に英雄とは、強い権力や危険に立ち向かい、他者を守る人物を指す。

植松が攻撃したのは、政治家でも、制度を決めた官僚でも、施設経営によって利益を得た人物でもなかった。

就寝中で、抵抗や避難が困難な人々だった。

それを英雄的行為と呼ぶことは、勇気という言葉の意味を完全に反転させる。

植松を英雄視する声の背景には、救われなかった犯罪被害者の怒りや、介護制度に対する不満が含まれているかもしれない。その苦痛は真剣に受け止めなければならない。

しかし、苦痛の原因を無関係な弱者に背負わせ、その排除を正義と呼ぶことはできない。

事件から10年となった2026年、障害者団体は、生命の価値に優劣はなく、優生思想を許さない社会を求める声明を発表した。

この事件が問いかけているのは、障害者を「善良だから守る」のかという問題ではない。

役に立つか、意思疎通ができるか、危険性がないかにかかわらず、一人の人間の生命を集団的な計算の対象にしてはならないという原則を、社会が守れるかという問題である。

  • 被害者の怒りを聞くこと。
  • 制度の失敗を認めること。
  • 危険な行為には個別に対応すること。
  • そして、それでも無関係な人間を犠牲にしないこと。

その困難な四つを同時に引き受けることが、「誰かを消せば解決する」という英雄物語に抗う道である。

弱い者を殺した人物を英雄と呼び始めたとき、問われているのは障害者の価値ではない。私たちの社会が、人間の価値に値段を付ける社会になるのかどうかである。


参考資料

事実関係は2026年8月6日時点で確認した。元記事の匿名女性の証言は独立した裏付けを確認できないため、本稿では報道された心情の例として扱った。引用した思想家は本事件を論じておらず、その理論を本稿の問いへ応用している。

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