『絶歌』の内容と意味、印税はいくらか――酒鬼薔薇聖斗(元少年A)の手記と遺族・出版社をめぐる倫理
語る自由、知る価値、売れる仕組み、そして語られることを選べない被害者――出版と利益を分けて考える
1997年の神戸連続児童殺傷事件で「酒鬼薔薇聖斗」を名乗った元少年Aは、2015年、太田出版から手記『絶歌』を刊行した。内容は、生い立ちと事件に至る自己説明、医療少年院を経た社会復帰の記録である。だが、遺族への事前連絡なしに出版され、印税が発生したことで、「加害者に語る権利はあるのか」「犯罪を商品にしてよいのか」という問いが残った。本記事は内容を著作権に配慮して要約し、確認できる部数と価格から印税の推計範囲を示したうえで、実額・使途・遺族への支払いを事実と推測に分けて検討する。
一冊の本について、二つの問いが混同されている。
一つは、犯罪を行った人にも、自分の過去を語る自由があるのかという問いである。
もう一つは、その語りによって利益を得ることまで正当化されるのかという問いである。
『絶歌』を「出版してよいか」と「印税を受け取ってよいか」は、同じ問題ではない。さらに、「法的に出版できるか」と「遺族に知らせず出版することが倫理的か」も別である。
この区別を失うと、議論は二つの極端へ流れる。
- 表現の自由があるのだから、出版方法も収益の使い方もすべて自由だ。
- 遺族を傷つけるのだから、社会は内容を読むことさえ許してはならない。
どちらも早すぎる。
語る自由を守りながら、その語りが誰の人生を材料にし、誰に利益を与え、誰へ再び負担を課すのかを問うことはできる。
まず事実――『絶歌』とは何か
『絶歌――神戸連続児童殺傷事件』は、事件当時14歳だった加害男性が「元少年A」名義で著した手記である。2015年6月11日に太田出版から刊行された。
CiNii Booksの書誌情報では、294ページ、20センチ、ISBNは978-4-7783-1450-7と記録されている。太田出版の書籍ページは本体価格1500円としている。分類はNDC9の916、すなわち記録・手記の領域である。したがって、一般に「小説」と呼ばれることがあっても、出版社と書誌上の位置付けはフィクションではなく、本人による回想・自己記述である。
| 項目 | 確認できる情報 |
|---|---|
| 著者名義 | 元少年A |
| 出版社 | 太田出版 |
| 刊行 | 2015年6月11日 |
| 定価 | 1500円(当時の本体価格) |
| ページ数 | 294ページ |
| 構成 | 第1部・第2部 |
| 初版 | 10万部 |
| 早期の増刷 | 5万部 |
初版と増刷の数字は、当時の出版社情報を伝えたフジテレビの検証記事でも確認できる。
ここで重要なのは、手記は裁判記録でも、第三者による検証報告でもないという点である。
書かれた出来事がすべて虚偽だという意味ではない。本人にしか語れない経験はある。しかし、自分の過去を思い出して物語にする行為には、選択、編集、意味付けが必ず入る。
『絶歌』は事件についての資料の一つではあるが、事件の最終的な「真相」そのものではない。
内容を要約すると――二部構成で何が書かれているのか
以下は、原文を再録するものではなく、公開書誌と報道で確認できる範囲の要約である。事件や動物虐待の具体的な描写は必要最小限にとどめる。
第1部――生い立ち、死と性、事件に至る自己説明
第1部は、逮捕によって個人名を失い、社会から「少年A」という記号として扱われたという自己認識から始まる。そこから時間をさかのぼり、家庭、学校生活、祖母との関係、祖母や飼い犬の死、孤立、動物への加害、性的衝動と死の結び付き、事件へ至る内面が語られる。
読者の関心が特に集まる「祖母」の記述について、著者は最愛の祖母の死を、自分の人生が逸れ始めた契機として配置する。さらに、祖母の遺影や遺品をめぐる体験を、性、死、罪悪感が結び付いた瞬間として説明する。
しかし、この説明は慎重に読まなければならない。
「祖母の死の後に変化が起きた」という時間順序と、「祖母の死が犯罪を生んだ」という因果関係は同じではない。喪失、家庭環境、発達、衝動、空想、他者との関係など、多数の要因を一つの起点へ回収すれば、複雑な犯罪が一つの劇的な物語に変わってしまう。
祖母は事件の原因を説明する装置ではない。まして、亡くなった祖母に責任を移すことはできない。
第2部――医療少年院後の社会復帰
第2部は、2004年の仮退院後を中心に、更生保護施設、就労、住居、人間関係、身元が知られる恐怖、社会の中で生活を再建しようとする過程を扱う。
この部分には、重大な犯罪を行った人を社会へ戻すとは何か、という制度上の問いがある。
社会復帰は無罪放免ではない。再犯を防ぎ、生活基盤をつくり、責任を引き受け続けられる状態にすることは、被害者のためにも社会のためにも必要である。他方、本人が働き、苦しみ、孤立したという記述は、それだけで被害と釣り合う償いにはならない。
加害者の困難を理解することと、被害者の損失を相対化することは別である。
『絶歌』というタイトルの意味は何か
「絶歌」は、日常的に定義が確立した一般語とは言いにくい。出版社の公表資料にも、題名を一つの意味へ固定する公式説明は見当たらない。
したがって、題名の意味は解釈として示すべきで、著者の確定的意図として断定すべきではない。
「絶」には、断つ、隔てる、尽きる、絶命するといった連想がある。「歌」は、声、告白、自己表現、鎮魂を連想させる。組み合わせれば、少なくとも三つの読み方が可能である。
- 断絶した人生から発せられる歌。
- 死と隣接する最後の歌。
- 「少年A」という記号から人間の声を取り戻そうとする歌。
だが、第三の読み方には危険もある。
著者が自分を「記号から人間へ」戻そうとするとき、殺害された子どもたちが、逆に著者の物語を成立させる記号へ変えられていないか。
題名の中心にあるのは、単なる言葉の意味ではない。
誰の声が歌として聞かれ、誰の沈黙がその背景へ追いやられるのかという問題である。
印税はいくらだったのか――1500万円は確定額ではない
最も広く流通した数字は「初版の印税1500万円」である。
計算自体は簡単である。
1500円 × 10万部 × 印税率10% = 1500万円
しかし、ここに使われた10%は報道上の仮定であり、著者と出版社の契約は公表されていない。印税が発行部数を基準にするのか、実売部数を基準にするのか、前払い金があるのか、電子版や二次利用をどう扱うのかも分からない。
2015年6月時点で確認された初版10万部と5万部の増刷を基に、単純計算すると次のようになる。
| 計算対象 | 印税率8%と仮定 | 印税率10%と仮定 |
|---|---|---|
| 初版10万部 | 1200万円 | 1500万円 |
| 合計15万部 | 1800万円 | 2250万円 |
これは税引き前の機械的な推計であり、実際に著者が受け取った金額ではない。
したがって、正確な答えはこうなる。
『絶歌』の印税実額は公表資料から確定できない。1500万円や2250万円は、部数、定価、仮定した印税率を掛けた試算である。
発行部数と実売部数も同じではない。印税率を知らずに「何千万円を得た」と事実のように書くのは不正確である。
印税の行方――「遺族へ渡す意向」と「実際に渡った」は違う
2015年、国会へ提出された日本版「サムの息子法」に関する質問主意書は、出版社が「印税収入を被害者や遺族への賠償に充てたいと本人が話している」と説明したという当時の新聞報道を引用している。
ここで確認できるのは、本人の意向として出版社が説明したことまでである。
- 印税全額を支払う法的契約があったとは確認できない。
- 出版と同時に遺族へ送金されたとは確認できない。
- 遺族がその方法での支払いを望んでいたとは限らない。
- 残りの印税が何に使われたかは公表されていない。
関西テレビの2026年5月の取材によれば、出版翌年、元少年Aは印税から賠償金を支払うことを申し出たが、淳君の父親は拒否した。その後、同様の申し出がないまま約10年が経過し、年ごとの手紙も2018年から届かなくなったという。
拒否は、「遺族が賠償を必要としていない」という意味ではない。
父親にとって、無断出版によって生じた金を受け取ることは、子どもの死を売上へ変換する仕組みに自ら参加させられることだった。金銭の額ではなく、償いの方法を加害者側が一方的に決めたことが問題なのである。
賠償は、本来、相手の損害と権利に応答する行為である。「売れたので、その一部を渡す」という順番では、出版による利益が償いの前提になってしまう。
なぜ出版社は遺族の了解を得なかったのか
太田出版は刊行後の公式説明で、遺族にとって突然の出版となり、心を乱す結果になったという批判を重く受け止めるとした。一方で、出版するかどうかを遺族の判断へ委ねることは、出版社自身の責任回避になると説明し、少年犯罪の背景を考える社会的意義を理由に刊行継続を選んだ。
この説明には一理ある。
報道や出版は、描かれる当事者全員から許可を得なければ成立しない制度ではない。権力犯罪、歴史的事件、組織的不正について、関係者の拒否が絶対的な拒否権になれば、公共的な検証はできなくなる。
しかし、「最終決定を出版社が負う」ことと、「事前に知らせない」ことは同じではない。
遺族に拒否権を与えないとしても、次の配慮は可能だった。
- 刊行前に内容と時期を知らせる。
- 遺族の私的な手紙や、遺族だけに伝えたと受け取られ得る内容を区別する。
- 宣伝で事件の残酷さを刺激的に利用しない。
- 印税の一定額を、著者の任意ではなく透明な仕組みで賠償へ充てる。
- 売上と支払いの方針を第三者が検証できるようにする。
出版の自由は、予告なしに他人の傷へ踏み込む自由と同義ではない。
図書館や書店は扱うべきだったのか
刊行当時、一部の書店や図書館は販売・購入を見合わせた。明石市は犯罪被害者支援条例に基づく配慮要請で、出版そのものが二次的被害を生じさせ、購入も遺族の苦痛を増幅させるとして、市立図書館で購入しない方針を示した。
これは単純な「検閲か、自由か」ではない。
書店は何を仕入れるかを編集できる。図書館にも予算と収集方針があり、すべての本を所蔵する義務はない。一方、公立図書館が強い社会的反発だけを理由に資料を排除すれば、後世の研究や検証に必要な記録まで失われかねない。
考えられる中間的な対応はある。
- 派手な展示や販促と、資料としての所蔵を分ける。
- 事件と被害者支援に関する複数の資料を併置する。
- 購入理由と収集基準を公開する。
- 遺族の著作や第三者研究も同時に可視化する。
読むことは賛同ではない。しかし、読む行為も市場と注目をつくる。読者は完全な傍観者ではない。
リクール――自己物語は人を作り直すが、真実を独占しない
ポール・リクールは、人が自分を理解するために「物語的同一性」を作ると考えた。
私たちは、断片的な出来事を時間順に並べ、原因と転機を選び、「私はこういう人間だった」と語る。その物語によって、変化した自分と過去の自分を同じ一人として引き受ける。
『絶歌』にも、その働きがある。
「祖母の死」「孤立」「衝動」「逮捕」「少年院」「社会復帰」という出来事を一つの線へ並べ、元少年Aは自分を、理解不能な怪物ではなく、連続した人生を持つ人間として再構成する。
それ自体は、更生に必要な作業かもしれない。
しかし、物語は責任を引き受ける道具にも、責任を薄める道具にもなる。
物語が「なぜそうなったか」を説明するとき、読者はいつの間にか「だから仕方なかった」と感じることがある。説明と免責の境界は薄い。
リクールから得るべき教訓は、自己物語を禁止することではない。
一人称の物語を、複数の証言と記録の中へ置き直すことである。
カント――被害者を「自分を取り戻すための材料」にしていないか
カントの人格尊重の原理は、人を単なる手段として扱ってはならないと命じる。
出版が著者の自己理解、社会復帰、収入、名誉回復に役立ったとしても、そのために被害者と遺族の人生を素材として使えば問題が生じる。
とりわけ、著者にとっては「自分の過去」でも、遺族にとっては「奪われた家族の人生」である。同じ事件を語る権利は、一方だけに専有されていない。
遺族の許可を絶対条件にすべきだ、という結論が直ちに出るわけではない。だが、遺族を出版計画の障害物としてではなく、独自の目的と尊厳を持つ人として扱うなら、少なくとも事前通知、表現上の節度、収益処理の協議が必要だった。
「出版する責任を出版社が負う」という言葉は正しい。
だからこそ、その責任は刊行決定だけで終わらない。
ミル――社会的価値があることは、最大限に売る理由になるか
ジョン・スチュアート・ミルの自由論から見れば、不快で危険に見える言論にも、社会が誤りを検討し、理解を深める価値がある。
加害者の語りから、少年犯罪、治療、少年司法、社会復帰を考えることには公共的価値があり得る。読む前から内容を封じれば、研究や再犯防止に役立つ情報まで失う可能性がある。
しかし、ここでも二つを分ける必要がある。
- 社会が内容へアクセスできること。
- その内容を大規模な商品として宣伝し、著者へ利益を帰属させること。
公共的価値が目的なら、利益相反を小さくする方法がある。印税を独立管理する、賠償債権へ優先的に充てる、研究者の解説を付す、売上を透明化する、といった設計である。
「読めるようにする」ことと「最大限売れるようにする」ことは同じではない。
レヴィナス――一人称の強さが、他者の顔を覆う
エマニュエル・レヴィナスにとって、倫理は、自分が世界を説明する前に、傷つけてはならない他者から呼びかけられる経験に始まる。
手記は一人称の形式を持つ。「私はこう感じた」「私はこう変わった」という声は、読者を内面へ引き込む。一方、殺害された子どもは自分の一人称を語れない。
この非対称性は、文章の巧拙では埋まらない。
加害者の内面が細かく描かれるほど、被害者は「彼を変化させた出来事」として背景化される危険がある。読者が理解すべきなのは、加害者の心理だけではない。
語れない人の不在が、語る人の文章の中でどう扱われているかも読まなければならない。
マルクス――犯罪の物語が商品になるとき
本は商品でもある。編集、印刷、流通、書店、広告を通じ、読者の関心が売上へ変換される。
マルクスの商品の分析を借りれば、市場では、物を生み出した人間関係が価格の背後へ隠れる。
『絶歌』の1500円という価格からは、二人の子どもの死、負傷した子どもたち、遺族の時間、著者の更生、編集者の判断、社会の恐怖と好奇心は見えない。すべてが「話題の本」という一つの商品へ圧縮される。
印税への違和感は、単なる嫉妬ではない。
犯罪が注目を生み、その注目が販売部数を生み、販売部数が加害者の収入を生むという因果が、正義の順序を逆転させて見えるからである。
ただし、利益を全面禁止すれば、加害経験に関する重要な証言まで沈黙させる可能性がある。問題は「語るな」ではなく、犯罪によって生じた市場価値を誰が管理し、誰の損害を先に回復するかである。
デリダ――賠償金は赦しを買えない
ジャック・デリダは、赦しを取引や正常化の手段にしてしまう危険を論じた。
謝罪したから赦される。金を払ったから関係が終わる。本を書いて内面を説明したから理解される。
この交換式は、被害者の自由を奪う。
賠償は義務であり、赦しの代金ではない。遺族には、金銭を受け取りながら赦さない自由も、特定の金銭を拒む自由も、沈黙する自由もある。
『絶歌』の印税を受け取らなかった判断を、「感情的」「もったいない」と評価すべきではない。その拒否は、加害者側が設定した「出版して稼ぎ、その金で償う」という物語への参加を拒む行為だった。
償いとは、相手にこちらの結末を受け入れさせることではない。
サムの息子法――利益を被害者へ渡せば解決するのか
『絶歌』刊行後、日本でも、犯罪についての出版収益を差し押さえて被害者へ充てる「サムの息子法」が議論された。
2015年の政府答弁は、そのような制度には表現の自由の観点から慎重な検討が必要だとした。
この懸念には根拠がある。米国の連邦最高裁は1991年、当時のニューヨーク州法について、犯罪を語る表現だけに金銭的負担を課し、対象が広すぎるとして違憲と判断した。米司法省の判例解説も、被害者補償は重要な目的だが、犯罪についての言論だけを狙う制度は狭く設計されていないと整理している。
だからといって、何もしないしかないわけではない。
より公正なのは、内容に応じて言論を罰する制度ではなく、既存の損害賠償債務を、給与、財産、印税など収入の種類を問わず実効的に履行させる制度である。
その方が、犯罪について語る人だけを狙わず、「債務を負う人が収入を得たなら、まず被害回復へ充てる」という中立的な原則になる。
出版の自由と被害者の尊厳を両立させる設計
『絶歌』から導くべき制度は、全面禁止でも、完全放任でもない。
少なくとも、重大犯罪の当事者による商業出版には、次の原則が考えられる。
- 出版判断と収益判断を分ける。 内容を公表できても、収益を自由に処分できるとは限らない。
- 既存の賠償債務を優先する。 印税だけを特別扱いせず、あらゆる収入から公平に履行させる。
- 事前通知を原則にする。 遺族に拒否権を与えなくても、突然の二次被害を減らす時間を保障する。
- 私的通信を保護する。 遺族宛ての手紙と商業出版の原稿を混同しない。
- 売上と資金の流れを透明化する。 「賠償に使いたい」という意思表示を、監査可能な仕組みへ変える。
- 被害者の声を同じ公共空間に残す。 加害者の物語だけが検索結果と書棚を占有しないようにする。
これなら、表現を国家が事前に禁止せず、同時に犯罪の知名度が加害者だけの資産になることを防げる。
結論――語る権利はあっても、物語を所有する権利はない
『絶歌』の内容は、元少年Aが自分の生い立ち、事件に至る内面、医療少年院後の社会復帰を一つの人生として語り直したものである。そこには、少年犯罪と更生を考える資料的価値があり得る。
しかし、自己説明は真相の独占ではない。理解可能であることは、免責されることでもない。
印税について確認できるのは、定価1500円、初版10万部、早期の増刷5万部である。1500万円や2250万円は、印税率を10%と仮定した計算にすぎず、実額は確認できない。さらに、遺族への支払いを望んだという説明と、実際に遺族が受領したことも同じではない。
最も重要なのは、出版か沈黙かという二択を越えることである。
加害者には語る自由がある。社会には読んで検証する理由がある。出版社には刊行を判断する自由がある。
だが、事件の物語は加害者だけの所有物ではない。そこには、語れなくなった被害者、語るかどうかを選べない遺族、損害を引き受ける社会がいる。
だから、自由な出版に必要なのは無条件の利益ではなく、他者の人生を材料にしたことへの継続的で検証可能な責任である。
NOW IN QUESTION
私たちは、加害者が語ったことに怒っているのか。
それとも、被害者が何も選べないまま、その語りだけが商品として成功したことに怒っているのか。
後者なら、必要なのは本を消すことだけではない。
語りの自由を残しながら、利益より先に責任が届く制度をつくることである。